戦国時代、鉄砲がポルトガルからもたらされ、大量の殺傷をもたらす戦いに変わりました。内科医から外科医の必要性が出、医者達の多くが長崎にてオランダ人医師と接触、色んな知識を得る事に成ります。
博多駅から「大博通り」を、北へ2㌔程歩くと右側に、「原三信病院」が在ります。医者としての家業が100年以上も続く家は、福岡では余り無いと思います。
江戸時代は、対馬・長崎が対外貿易の窓口で有り、1609年(江戸時代の初め)、「オランダ商館」が、幕府に許可された海外貿易の拠点(鎖国時代も含む)でした。
原家は、代々「原三信」を名乗り、「第15代原三信」と続いてきました。
平成5年、第15代原三信は娘婿に院長の職を譲り、病院名は残し院長職は、平祐二先生が就任し現在に至っています(原寛作 博多に生きた藩医から)。
原三信家は、1600年代、初代黒田長政に藩医として召喚され、1630年の島原の乱では外科医として従軍しました。
第6代原三信は、藩命で長崎に留学、オランダ人医師より、「蘭方外科医」の免状を受け、又、「ドイツ人リメリン」のオランダ語訳の解剖書を日本語翻訳し、代々残っており、その貴重な資料を、平成6年、第15代原三信は福岡市に寄付しました。
一般に知られる「解体新書」は、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムズの医学書をオランダ語訳した「ターヘル・アトミア」を日本語に翻訳した物が、杉田玄白により刊行され、1774年に幕府に献上されたものです。
原三信が長崎奉行に差し出したのは、1682年頃との事であり、解体新書より100年近く前に幕府に報告された事が、原寛氏の著書に書かれています。
日本最初の西洋解剖図の複写の人体の構造を見ながら、実際の外科手術に使われました。
原三信病院は、我々博多ガイドの会の緊急時の指定病院でも有ります。
博多区の原三信病院の様子
南区若久の原病院の様子