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『神様になった 勤皇の志士「平野國臣」』

2013年03月30日(土)
コラムニスト

福岡市西公園を光雲神社にあがって行く途中に大きなブロンズ像が建っている。福岡藩の下級武士であった平野國臣の銅像である。大正4年に建立されたが太平洋戦争で供出され、昭和39年平野國臣百年祭にて再建される。

又、鳥飼八幡宮の東側には、平野神社があり平野國臣が祀られている。幕末にあまりぱっとしない福岡藩の中で先駆的な数少ない勤皇の志士であった。父は足軽であったが、杖道(剣道)に長け、門人は千余人も居た。その二男として生まれ、武道も備え、亀井塾の門下生として勉学に励んだ。

18才で黒田藩の普請方手付として仕官、又、江戸勤務も命ぜられ、その間に多くの薩摩人との交流を図り、島津斉彬・西郷隆盛等との交友を深め尊王主義に傾注する様になり、久留米藩の真木和泉との出会いも倒幕論を広める事になっていった。1862年、島津久光の上洛に併せ挙兵を図るが寺田屋事件で失敗し投獄される。1863年(文久3年)は、尊王攘夷運動が最大になった年であった。京都には各地から尊攘派志士が集結。朝廷の中も急進派が主流を占めて行く。

その年の8月13日「大和行幸」が企てられた。企画の中心に居た真木和泉は、神武天皇稜・春日大社・伊勢神宮に行幸し親政の実行、その後倒幕も視野に入れていた。「8月18日の政変」(会津藩・薩摩藩を中心とする公武合体派が、長州を中心とする尊王攘夷派を京都より追放した事件)があり、大和行幸は上手く行かず延期される。失脚した公家7人「七卿落ち」と共に急進派の長州勢は長州へと帰郷する事に成る。

この政変の前日、土佐浪士吉村虎太郎等が大和の国五条で挙兵し五条天領を天朝直轄地とした、「天誅組の変」。あまりの天誅組の過激な行動を気にした三条実美は暴発を危惧し、学習院出仕の平野國臣を五条に送った。8月18日の政変を知らない平野國臣は天誅組と意気投合するが、事変を知り大和の国を去る。

10月には、平野國臣(黒田藩脱藩)や騎兵隊総監の川上弥一や豪農の北垣晋太郎等は、七卿の一人の公家澤宣嘉を擁して但馬の国生野で挙兵「生野義挙」を議決したが、平野は、情勢悪いとして一端挙兵中止を主張するものの、強硬派の意見がまかり通り挙兵に至る。

大和義挙を応援と言う事で生野義挙が画策されるが、結局、公家澤宣嘉大将の脱走で惨めな瓦解に終わる。平野國臣は鳥取方面に逃げるも捕えられ、京都の六角獄舎に送られ殺害される。

平野國臣は、諸外国が色んな手を使い植民地にしようとしている時期に、薩摩・長州の両雄藩が争う時期ではなく、西欧列強と対等の国造りが早急と考えていた。平野國臣が目指した王政復古大号令が出るのは、平野國臣死後4年後であった。

明治24年、明治政府より維新に貢献したとして、贈正四位が授与された。

 

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