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「大楠様(謝國明のお墓)」になぜ馬頭観音石碑が?

2020年02月13日(木)
コラムニスト

12世紀の末ごろ宋(中国)で生まれた謝國明は日宋貿易で財を成し、日本で初めて国師号(僧)を与えられた聖一(しょういち)国師[円爾(えんに)]の渡宋を支援していて、円爾が帰国すると、彼のために承天寺を建立(1242年)したことで知られています。さらに寺を維持するための寺領として、筥崎宮から野間、高宮、原村を購入し、寄進しています。承天寺は、今では想像もできない広大な寺域の禅寺だったのです。
謝國明は、貿易で得た巨万の富を寺院や博多のために惜しげもなく使い、宋からお坊さんをよんだり、中国に留学させたり、一切の費用を負担したといいます。
謝國明の墓は、昔の承天寺境内の博多駅前一丁目出来町郵便局の隣にあります。
その墓はいつしか側に植えられた巨大なクスノキに包みこまれてしまい、それ故、博多の人たちは「大楠様」と呼ぶようになりました。
大楠様には、1833年に当時の第144代住職大完和尚撰文の「謝國明碑文石碑」と、1826年に建立された前聖福寺住職で有名な仙厓和尚等が建立した「南無阿弥陀仏供養塘」が有名であり、謝國明碑文石碑には、謝大人(うし)の遺徳が記載されています。
謝國明遺徳顕彰慰霊祭運営委員会(吉村充)発行の冊子「謝国明と大楠様千灯明祭について」によると、今では分境内そのものが「大楠様」と呼ばれていますが、出来町は、大昔から太宰府へ向かう重要な関門であり、古来『宰府往還』と呼ばれ、博多より太宰府へ通ずる道でした。
大楠様は、謝國明の墓所であると同時に宰府往還の休憩所にもなっていた歴史的な場所でもあり、謝国明碑文には「耕夫憩い、牛馬繋ぐ」とあり大楠のほかに交通安全を願い「牛馬安全」の文字も刻まれた馬頭観音石碑があります。
とあり、人畜が多く集まる場所でもありました。このことから、なぜ馬頭観音石碑が大楠様にあるのかが納得できると思います。

中央のやや丸みを帯びた長方形の石造が馬頭観音石碑です

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