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『新年号「令和」と「大宰府政庁」と「太宰府天満宮」』

2019年05月15日(水)
コラムニスト

博多は、稲作文化をもたらした弥生時代までさかのぼり、海の玄関として栄えている。
663年10月の朝鮮半島の白村江(はくそんこう)の戦いで、日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗れ撤退する。朝鮮半島からの危機を感じた平城京の幕府は、対馬・壱岐・筑紫に、東北地方も含み全国から集めた防人(さきもり)を配置し、博多区の比恵遺跡に在ったとされる「那津宮家」(536年 九州統治と中国・朝鮮との外交窓口として設置)を、665年天智天皇は大宰府に移し、「大宰府政庁」とした。大宰府は幕府の軍事防衛の拠点であり、遠の朝廷とも言われ、当時日本最大の都市・博多と共に栄えた。

新年号「令和」は、万葉集の梅花の宴にて詠まれた「初春令月、気淑風和」が出典との事。
当時、大宰府政庁の庁官(大宰の帥)であった大伴旅人の自宅に32人の役人が集まり、梅花の宴の席で詠まれた歌の序文である。

現在の坂本八幡宮(5/1 新天皇即位当日 お参りした時の写真添付)は、大伴旅人の邸宅が在った処とされている。
五・七・五・七・七の三十一文字(みそひともじ)の短歌である。
平仮名が無い時で、万葉仮名が使われ、漢字の意味と違う音だけで表現されている。
大伴旅人(大宰の師・庁官)・大伴家持(太宰の少弐)父子が纏めた「万葉集」は、5世紀、雄略天皇(21代)の歌から、759年の大伴家持が詠んだ歌まで、4,516首を20巻にまとめた歌集である。

太宰府と言えば、学問の神様である「菅原道真」のイメージが高く、太宰府天満宮の方が有名である。
博多には、「綱敷天満宮」「鏡天満宮」「四十川に架かる姿見橋」が在り、右大臣を失脚し、大宰の帥(そち)と左遷され、海路博多の地に第一歩を踏んだ菅原道真を、暖かく向かい入れた博多人の思いが伝わってくる。
博多には、三笠川・那珂川沿いに、多くの天満宮が在り信仰も厚い。
わが家の近くの野間神社にも太宰府天満宮宮司が書いた石碑がある。
又、美野島には菅原天満宮が在り、住吉神社の宮司が毎月25日に祝詞を挙げている。

801年 菅原道真は大宰の帥として左遷され、803年逝去した。
牛車にて運ぶ途中牛が動かなくなり、其処を墓所とされ、太宰府天満宮が建てられた。
大伴旅人が大宰の帥として赴任してから200年後に、菅原道真も赴任した事に成る。
新年号「令和」になり、博多も加え、新年号出典の地を多くの観光客が来る事を願っている。

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