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流通を盛んにすることは、国を富ませることと考えた平清盛と博多

2024年06月14日(金)
コラムニスト

○鳥羽院政期(12世紀の初め)、中国と朝鮮半島にあった高麗との貿易が盛んに行われていました。九州の商船が高麗に行き、中国産物を買いつけていました。そのため高麗は中国貿易で大きな利益を上げていました。しかし、高麗の豪族のなかに日本商船の商品を狙う者もいました。彼らは、自分の領地の沿岸を通行する外国船を、海賊としてとらえ貿易船を没収しました。そのため、鳥羽院政の頃から南宋と直接貿易をしようという動きが起こっていました。中国では、揚子江流域に拠る南宋が、北方の脅威である金を封じ込めるために高麗や日本との親密な関係を築こうとしていたこともあり、平治の乱のあと権勢を強めた平清盛は、誰の干渉も受けずおもいのままに日宋貿易をおこなう権力を得ました。

○清盛は太宰府大弐を勤めていた時に、北九州の沿岸武士や貿易商を平氏の配下に組みこむことに成功しました。また、この時の太宰府大弐は、実質的には太宰府の長官の職務を執行するものでありました。太宰府の長官である太宰府帥には、親王が任命され、その権限は次官大弐に代行されました。清盛は、武力を背景に九州の武士に圧力をかけました。そして、自分の任期満了の後に、弟の平頼盛を太宰府大弐にしました。この時代、日本の輸出品は、砂金、真珠、水銀、イオウ等でした。南宋の輸入品は、絹織物、香料、陶磁器といった贅沢品に、書籍、薬品、それに銅銭でした。南宋から輸入された宋銭は、日本の経済に大きな影響を与えました。院政期から私貿易で得た宋銭が広まり始め、九州の武士の手を経て、京都に入り、全国に広まりました。平氏政権の時期を中心にとする12世紀の後半のわずか50年の間に西日本はどこでも貨幣が通用する世界となっていきました。平清盛は貿易立国を目指したリーダーでした。

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