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中洲について

2020年08月12日(水)
コラムニスト

○ 博多のひと・こと・ものを知れば知るほど、もっと知りたくなる。博多の歴史や文化等を、いろいろな視点から学びなおし、理解を深めたいと思う。博多に関しての本を読んだり、詳しい人から直接話を聞いたりする活動過程は、とても興味深いし、面白いと思う。

○ 「福岡」と中洲
慶長6年、筑前福岡藩の初代藩主黒田長政が、名島から城を移す際、築城の地「福崎」を出身地の備前国福岡庄にちなんで「福岡」と改名した。その後、「福岡」は城下町として発展した。その時、西が武士の町福岡と、東が商人の町博多に分かれた。
{ 明治になり、武士と商人の町に分けられていた福岡と博多は、その境が自然となくなったこともあり、両者を結ぶ場所・東中洲一帯の開発が進んだ。中洲はもともと那珂川の河口に設けられた福岡・博多を結ぶ島に堆積物が積もって出来た土地。その後、町人たちが開拓して種油を採取するための菜の花を植えた。江戸時代には商家がいくつかあるだけで、二本の端で結ばれるのみであった中洲だが、幕末になると黑田藩による開発が進み藩営の「溶解炉精錬所」が置かれたこともある。
この辺りが一気に活況を呈するのは、明治20年に西中洲を含めた中洲一帯が「第5回九州沖縄八県連合共進会」の会場となり、土地の造成が行われ、周辺は大改造された。当時は博覧会とはいわず「共進会」と名付けて九州一帯での共催。各県が順番に会場を提供し開催した。新しい文化を共有し、九州一帯となって土地の特産を活かし発展を誓うのが目的。その5番目当番都市が福岡市であった。メインテーマ館となる「共進会」福岡県倶楽部や保険業界のパピリオン、情報通信のための新聞社などが軒を連ねた。このことがやがて中洲が西日本一の歓楽街となる、きっかけとなった。明治から昭和の戦後の間、規模は様々だが博覧会が17回も開催された。(初期の博覧会は天神地区で5回開催されている。) }
月刊 はかた 4(2019)福博歴史 こぼれ話
文 岡部 定一郎くらしをたづねて「福岡天神」その二より 部分引用

○ 以前、那珂川の近くの旧福岡県公会堂貴賓館へ見学に行った時に、福岡博覧会の資料が展示されていた。展覧会の会場になることで、中洲周辺の発展が加速したこと、場所が市の中心部であることから考えると、今後もさらに発展することであろう等の感想をもった。今、振り返ると、ふだん、見慣れた場所や建物でも、そのいわれや移り変わりを知って見学するのと、知らないで見学するのは、大きな違いがあると思う。
今年は、コロナの影響で、博多の伝統的な祭り・イベントが中止になったが、「ステイ・ホーム」で、家で過ごす時間が増えた。そこで、博多の歴史や文化に関しての読書量を増やすことに心がけている。コロナの流行が終息したら、見学は事前に調べて学んだ後に、目的を明確にし、時間をかけて町歩きをしたいと思う。

 

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