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コラム

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大友宗麟が建てた「内畑稲荷神社」を博多区祇園町で見つけました

2017年07月10日(月)
コラムニスト

祇園町のお寺・商業ビル・飲み屋・パチンコ屋等の雑ぜんとした合間に囲まれていて、暫しの憩いの場の感じです。
場所は、福岡市博多区祇園町1-8。「東長寺」の斜め前の谷間に在ります。
神社に入ると「内畑稲荷神社由来」の案内が書かれています。
豊後の大友宗麟の勇将「臼杵安房守」が、博多の警護を任され、築城した時、ご斎神を豊後臼杵より勧請し鎮座したと書かれています。

博多について触れてみますと、弥生時代に遡り、稲作が日本に初めて大陸より持ち込まれたと言われ、板付遺跡等多くが残っています。
7世紀になると、大和朝廷は、奈良・平安時代を通じ、我が国の西の守りとして大宰府政庁が置かれ、それ以来、博多は大陸との窓口として発展します。

仏教文化も臨済宗の「聖福寺」、「承天寺」、踊る宗教・時宗の「称名寺」、弘法大使の「東長寺」、浄土真宗の「萬行寺」等々8世紀以降、遣唐使・遣明使が中国に派遣され、大陸との交流も博多を起点とした事で益々隆昌に繋がります。
中国人も来日し、貿易が盛んと成り富が博多に蓄積され、日本で有数の人口も誇り豊かな都市と成っていきます。
戦国時代には、戦国大名が狙う所と成り、周防の大内、豊後の大友、肥後の菊池、肥前の龍造寺、薩摩の島津、全国制覇を図る豊臣秀吉・黒田如水等々が支配を繰り返し、江戸時代は、黒田のお殿様の元、52万石の福岡・博多として栄えていきました。

さて本題に戻ると、豊後の大友は、鎌倉以来の守護大名でありましたが、室町・戦国時代には戦国大名となり、九州では一大勢力を誇りました。
大友宗麟はキリスト教のフランシスコ・ザビエルとの出会いも有り、キリシタン大名となり、居城も府内(現大分市)から臼杵に移城し九州を統括していました。
西日本新聞の「旧町名歴史散歩」の祇園町の稿で、「萬行寺」の裏には、「房州濠跡」が残っていまして、博多防衛の目的で川筋を変える大工事が有りその遺構跡で、それを造った臼杵安房の守に因んで名づけられた様です。安房は房州で有ります。
博多駅からも近く、歴史散歩の1つとするのも一考かと思います。

 

 

 

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