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普賢山 萬行寺

2014年08月07日(木)
コラムニスト

萬行寺の山門を入って右手に「名娼明月墓」があります。
ご存知でしたか。
この方源氏名「明月」、本名「お秋」と言い備中生まれ。石山本願寺の戦の折、11世顕如上人に父とともに仕え働いていました。ここ萬行寺の住職第5世正海、俗名七里三河守順宗も駆けつけていました。その時お秋さん15才。
戦いの中で父が戦死し、その遺骨を抱えて国に帰ると病弱だった母はすでになく、唯一の頼りである許婚者の金吾は親の仇討ちのため九州へ旅立ったあとでした。会いたい一心で後をおうのですが、金吾は仇をとったものの自らも命果てたことを知り生きる力尽き果て海に身を投げます。
そのお秋を助けた男、お秋の美貌に慾心を起こし博多柳町の妓楼薩摩屋へ遊女として売られ源氏名「明月」としての暮らしが始まりました。
信仰心あるお秋さん、明月となってもその心をなくさず、ある日楼主に許を乞い亡き父母、金吾の菩提追善供養のため参詣した萬行寺において石山合戦で活躍した正海和上に遭遇、暗黒の中に一筋の光明を見出した心地であったに違いありません。
よりいっそうの信仰にめざめお参りを怠ることない明月の姿がいつしか病床に臥すに至り天正6年(1578年)2月7日普賢菩薩に迎えられました。22才。
なきがらは萬行寺境内に葬られ供養されました・・・。
明月逝きて49日を迎えた朝、墓より一茎の蓮華が伸び白蓮華の花がいまやほころびかけていました。その墓を掘り返して見た時、49日前に葬った明月のかんばせ(顔)は今なお生きているが如く輝き、わずかに開いた唇から浅緑の蓮華の茎が真っすぐに伸びていました。
この口蓮華は400余年の歳月を経た今日なおも浅緑に色をたたえ毎年5月15日に営まれる明月追悼の日に拝観できます。
「死したのちも生きつづける。」と言うことでしょうか。「名娼明月墓」は赤い色で書かれています。
南無阿弥陀仏―――

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