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中洲文学散歩

2020年12月11日(金)
コラムニスト

福岡市一の、いや九州一の繁華街である中洲。その博多川にかかる博多橋近くに建つ旅館。

建物は建て替えられているが、レトロな感じのある鉄筋コンクリートの建物。こちらが明治時代から旅館業を営む川丈旅館。

川端(町)の丈吉さんが始めたから、というのが屋号の由来だとか。現在は休業中とのこと。

その玄関前に、小さな文学碑がある。その上部に刻まれているのは、吉井勇の次の一首

「 旅籠屋の 名を川丈と いひしこと ふと思い出て 昔恋しむ 」

吉井勇が川丈旅館に泊まったのは明治40年のこと。

与謝野鉄幹と、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の5人が7月から8月にかけて約一月を九州北部、西部を旅した。

そして、その紀行文を「五足の靴」と題して発表するが、その「五足の靴」の旅の、九州での第一夜を過ごしたのが川丈旅館。

当時、鉄幹が34歳、他の4人は学生で二十代であった。その頃の川丈旅館はただの旅館ではなく氷店や船上花火を見せる納涼店等もかねていたとか。

二階の窓を開け放して寝かせてくれたと、「五足の靴」に書かれている。

5人はどのような話をしながら窓の外を眺めたのだろうかと思いを馳せる。

福岡県の詩人で作家の野田宇太郎は、明治四十年七月から八月いっぱいにかけて「明星」主催の与謝野鉄幹のもとに集まった学生たち4人と切支丹文化遺跡探訪に出かけたときの紀行文が、当時の東京二六新聞に連載されたことを知って、これを見過ごせば幻の紀行文になることを痛感し、その新聞を探した。

やがて苦心惨憺の末に発見された新聞には木下杢太郎の記憶違いか「五足の鞋」は「五足の靴」であることが分かった。

全二十九章の紀行文は、与謝野鉄幹を除けば無名の学生であったことから各文章には無記名で冒頭に「五人づれ」と書かれるだけで文中にはすべてイニシャルで記されていた。

まず、与謝野寛(鉄幹)はヒロシを音でクワンと呼んでK、北原白秋はH、木下杢太郎はM、吉井勇はI、平野万里はBであることがわかる。

この五人づれの旅は難行苦行の旅であったが、白秋・勇は早大生、杢太郎・万里は東大生で引率者の与謝野も34歳の若さであった。

与謝野は明治25年に上京した頃、しばらく二六新報に入社していたので、出発前に「五足の靴」の原稿送付の約束をしていたと思われる。

特に五章「潮」と二十三章「柳河」では、白秋の実家で行きも帰りも歓待を受けたことが記されている。

北原家では、東京から白秋の身の廻りの世話をしていた婆や三田ひろがやってきて、五人づれのかつての「常磐木」の同人たちの世話係を務めた。

北原白秋家滞在中は、ほとんどが泊まり込みで、酒宴には「北原酒造」の銘酒「潮」が振る舞われ、尽きない歓談が続き、白秋の父長太郎は五人づれに絹布を差し出し、「潮」の揮毫を依頼したのである。

ところが、5年後に火事により、北原家は破産の憂き目に遭い、白秋のデザインした「潮」のレッテルの商標権は柳河の島田酒店主、國蔵に売却された。しかし、「五足の靴」の切支丹遺跡探訪から、100周年を記念して孫の稔によって「潮」は感謝を込めて、復元された。

 

 

「福岡県不思議辞典」半田 隆夫・堂前亮平(編) 新人物往来社 参照

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