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悲劇の豪商 伊藤小左衛門

2019年09月10日(火)
コラムニスト

○ 長崎・対馬に歌い継がれている民謡が残っています。

伊藤小左衛門は 船乗り上手 昼は白帆で夜は黒帆 沖のとなかに お茶屋  たてて 上り下りの船を持つ

「黒帆」は密貿易を意味し、昼、表向きには真っ当な商いをしていましたが、その裏では、密貿易も手がけていました。

○ 博多の豪商と言えば秀吉恩顧の島井宗室、神屋宗湛、家康に重用された豪商・大賀宗九が有名ですが、更に、悲劇の豪商 伊藤小左衛門がいます。

※ 現在の博多小学校の場所に神屋宗湛の屋敷がありました。蔵本交差点あたりに大賀宗九・呉服町に嶋井宗室の屋敷があり、浜口公園付近に伊藤小左衛門の本店屋敷がありました。博多商人のルーツがこの周辺にあったのです。

交差点名が「神屋町」になっているのも神屋宗湛にちなんだものです。「蔵本」は、名護屋城の築城のための物資保管倉庫群があったことからこの地名がついたと言われています。
※ 周りに「博多博物館 電柱歴史案内」がたくさん設置されています。読みながらの散策も楽しいですよ。

○ 近松門左衛門の「国性爺合戦」のモデルの鄭成功(1624年~1662年)は明と日本人の混血児で、抗清復命運動の資金獲得に海上取引をしました。同じ海域で2代目小左衛門も武器素材の鉄と重要な流通品や米を扱い,黒田藩の財政を助け,一方で、自身も蓄財し,それを元手に伊藤小判を鋳造し,藩の海外雄飛を利用し海外密貿易にも手を染めました。

○ 1645年(生保2年)「鍋島家文書」佐賀藩主鍋島勝茂が「福岡藩の伊藤、大賀という者が、黒田家に代わって長崎屋敷で長崎奉行をもてなしておる。一体何者なのだ」と臣下に尋ねた、とあり。小左衛門は他藩でも注目される大商人になっていたことが分ります。また、現在の長崎市五島町にあった小左衛門の店では、天井をギャマン(ガラス)張りにして錦鯉を泳がせていたという話が残っています。初代小左衛門は博多商人末次平蔵の長男の娘をめとりました。銀7000貫以上資産を持つ大豪商であったとのことです。(当時銀千貫以上を、豪商といった。)

○ 密貿易の件で、(1667年)10月15日)に、小左衛門の悲劇が始まりました。この日博多・浜口町の本店を切り盛りしていた小左衛門の長男・甚十郎の婚礼が予定されていました。巨万の富を蓄え,黒田藩の御用商人としての権勢をほしいままにしていた一族の跡取りの門出、晴れがましい日になるはずでした。着飾った一族をはじめ番頭、手代までが集まり酒宴を待っていました。その席に役人が一斉に踏み込み。約150人を捕縛。小左衛門以下、事件に関わった。37人とともに、事件と直接関係の無い甚十郎も処刑されました。
事件の発端は、「対馬や長崎の商人が朝鮮に武器を密輸している」との訴えが公儀に寄せられたからとも、小左衛門の手代が乗った船が対馬で難破し、密貿易品を積んでいたことが露見したからとも言われています。

○ 萬四郎神社 博多区下呉服町1-28
小左衛門一族の由縁神社が萬四郎神社です。萬四郎神社は、伊藤小左衛門一族が断罪された中で三男5歳小四郎、四男3歳の万之助までも処刑されたのを哀れみ,幼子霊を祀るために建てられたと言われている。商売繁盛や子どもの健やかな成長に御利益のある神様として信仰されています。
博多の町人学者の奥村玉蘭著「筑前名所図絵」では、萬四郎恵比寿社では萬四郎恵比寿社は小左衛門屋敷跡の裏手に稲荷を祀り。小左衛門が長崎・福岡を往来するたびに、この家の奥に住む狐が行き来して主人に事々を知らせたとある。小左衛門が武具を朝鮮に売った罪で、長崎で磔になり伊藤家が断絶した際、狐も死んで稲荷に祀られたと言われています。

○ 伊藤小左衛門の件で、徳川幕府から福岡藩は密貿易の咎めを受けました。福岡藩は幕府に対し、父祖如水なみの剛胆さは示さず、むしろ島津や鍋島のような旧族藩と異なって、徳川を支える自負も有り、正面から幕府の意向には逆らえませんでした。
二代目小左衛門の断罪は,徳川幕府の威光に恭順し、なお自藩の海外貿易路線を保持するための苦策であったようです。事実二代藩主忠之は、海外貿易策を積極的に進めようとし,長政が自重した大船建造に絡む黒田騒動(栗山大膳事件)を起こしました。小左衛門密貿易にはそのような時代背景もありました。

○ 小左衛門父子と一族の墓は、円覚寺の南隣、承天寺の北方の菩提寺妙楽寺にあります。小左衛門父子の碑、一族墓碑は、妙楽寺境内・開山堂横にあります。

※ 「博多商人 鴻臚館から現代まで」  読売新聞社西部本社編、「福岡歴史がめ煮 博多区・中央区編」参照

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