しょうじょうじ
寺社仏閣 博多旧市街エリア正定寺は知恩院の末寺で、開山は聖光上人です。
1222年、福岡市席田青木(現:空港東)に開基されました。
その後、明応9年(1500年)、防州の大内義公の母、正定院が感誉上人に帰依し、博多の奈良屋に移転して正定院を再建しました。
感誉上人を中興開山とし、正定院の名をとって寺号としたとされています。
また、正定寺には「名島城の切腹の間」と「福岡大空襲時の焼夷弾」の破片が残されています。(※一般公開はしていません。)
■名島城切腹の間
当時、戦国大名たちは武士の作法として「切腹の間」をもっていました。
名島城が解体された際の遺構のうち切腹の間が正定寺に移されました。
切腹の間は、天井のさおは通常、床の間と平行で横に張られていますが、
この切腹の間は「とこざし」といって、さおが床の間と直角で縦に張られています。
これは切腹の間でしか使わない建築様式で、一般の住居では見られません。
しかし、黒田藩の中には、この切腹の間で腹を切ったという記録は残っていません。
■八丁への墓
境内には博多の春のお祭り「博多どんたく」の源流である博多松囃子の「通りもん」の創始者といわれる
西頭徳蔵の墓があり、横型の大きな墓石に刻まれた赤文字の「八丁へ」という文字は仙厓和尚の直筆の文字です。