江戸時代~大正の初めまでは,博多官内町(中呉服町・石堂橋付近で蓮池)にあった定説の鴻臚館について
博多部が福岡部よりも古いという思い込みがあるうえ,江戸時代の学者たち(黒田藩の著名な学者・青柳種信と子息の長野種正,地理学者の伊藤常足)が官内町説を主張。
福岡城内はその後,
1.官兵衛,長政親子が「福岡城」を1601年から7年かけて築城。
2.福岡県庁(福岡城内三の丸御殿)。
3.陸軍第12師団歩兵24連隊。
がありました。
上記定説を九州大学医学部病理学教授:中山平次郎医学博士(九州考古学のパイオニア)が,鴻臚館を解明されて,福岡城内説を特定される。その理由は,
1.736年(天平8年)に遺新羅使の一行が筑紫館にて詠った和歌:万葉集歌4首からみて,筑紫館は志賀島と荒津浜を同時に見渡せ,蝉時雨や荒津の波音が聞こえる小高い場所にあったと推測。
・筑紫館:飛鳥~奈良時代迄。
・万葉集は(4世紀~8世紀の4516首を20巻に)奈良時代に大伴家持が編纂で,彼の歌は477首。
・大伴旅人(家持の父)は太宰師で,家持は少年時代に3年と太宰小武として3年,あわせて2回・約6年,太宰府にいました。
2.869年(貞館1年),朝鮮海賊が来襲,鴻臚館に付設された「博多警固所」で守った。
3.11世紀の初め,中国海賊が来襲,鴻臚館に付設された「博多警固所」で守った。
※「博多警固所」は,福岡城築城の折,移築して天神の「警固神社」に。
4.福岡城内は当時,陸軍が駐屯,通常は民間人は入れませんが,5月3~4日の博多どんたく松囃子は入れました。1915年(大正4年),どんたく隊に紛れ込んで,兵営に入り,懐に隠し持ったスコップで土を削った。大量の古代の瓦・青磁を発見し,ここに瓦葺きの壮大な建物があったという奈良時代遺構を発見。
1926年(大正15年),「古代の博多」という題にて,論文で発表。博多官内町説から福岡城内説と実証発表されました。