秀吉は、1585年関白就任直後より大陸侵攻の意思を持ち、九州出兵自体は朝鮮出兵の拠点として重視し、そこから渡海する。
秀吉が1586年九州制定を果たした折薩摩軍は博多を撤退するに当たり街中を焼き払った。
焦土化した博多の立て直しの為、北部九州の軍奉行であった黒田孝高(後の如水)・石田三成・神屋宗湛等に命じ博多町割りを実施した。10町4筋+横筋1本の町割りを行い近代都市が形成された。まさしく、秀吉は博多の中興の大恩人である。
秀吉への恩を大事にした博多の豪商神屋宗湛は、自分の敷地内に博多豊国神社を造り秀吉を祀った。
これは、秀吉死後天皇より「豊国大明神」の神号を賜り秀吉を神として祀った故事による。
昭和通りに在る「旧下市小路跡」。ここが、太閤町割りで一番最初に作られた道である。
国内を統一し、いよいよ朝鮮出兵に向けて1591年10月、ご座所として名護屋城の築城を命じる。1592年2月に完成する。
秀吉が京都山城から名護屋城に到着したのは、1592年4月とされている。
その時は、一番隊小西行長・二番隊加藤清正・三番隊黒田長政等は、朝鮮各所に在り凱旋中であった。
徳川家康・前田利家・伊達政宗らは、10余万の兵で肥前名護屋に布陣していた。
当時の名護屋は、戦国武将の大半が集結していて、それぞれの陣屋が有り壮大な物であった。秀吉も渡海の意思を示していた。
朝鮮出兵も1598年秀吉の死去にて撤退した。
(名護屋城跡跡地・海を渡る安宅舟の復元船)の写真添付。
尚、名護屋城は、城跡のみであるが「肥前名護屋城図屏風」が残っていて、日本名城100選に選ばれている。