11月11日は博多が生んだ快男児であり、新演劇の祖 川上音次郎の命日でした。
2006年から毎年、音次郎の墓所がある承天寺の境内(覚皇殿前)では法要が行われ、
今年も子孫の川上哲君による現代版「オッペケペー節」が披露されたことは
新聞などで読まれた方も多いはず。
私も今年、ガイドとして案内させていただいた「情緒めぐり」④コースで、
音二郎像がある川端商店街のリバレイン口と音二郎生誕地近くの沖濱稲荷神社内で、
彼の功績についてお話させていただく機会がありました。
その功績の一つに、彼が今の「演歌」の元を作ったことを紹介させていただきました。
=ガイド小話=
武家政治が終わり、明治の自由民権運動の中で、川上音二郎は〝自由童子〟と呼ばれ、
政治の道に足を染めたことがありました。
※ 実際、音二郎は衆議院議員選挙に当選して、国会議員になっています。
当時は自由な意見・発言が許されず、規制の多い時代でした。
そんな中、音二郎は藩閥政治への風刺・批判を直接ことばで表現するのではなく、
あの「オッペケペー節」(歌)にして唄って、自らの主張を言い表したと言われています。
「オッペケペー節」はまさに、「演説の歌」であり、ここから「演歌」という名称が生まれ、定着しました。
近年、「演歌」という呼び方と歌われる内容のギャップに違和感を覚え、
「艶歌(=つややかな歌)」という名称に直そうと多くの演歌歌手が訴えています。
音次郎が関わった「演歌」の名称が変わってしまうのは残念なことかもしれませんが、
そのことで彼の功績が色褪せることがないのは、それだけ彼の偉業が大きかったことを示すに他なりません。
型破りな音二郎の性格の一端に触れようと私も音二郎展の期間中、
「博多町家」ふるさと館を訪れたいと思います。