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承天寺の大壇越 小弐武藤資頼・資能

2020年05月13日(水)
コラムニスト

○ 家ごもり 自粛続く 春なのに 終息願う コロナ旋風
世界中に吹き荒れる、コロナ旋風。マスク姿の大流行。1日もはやく終息することを願う今日、この頃です。特に3月・4月のスケジュールは中止・又は延期の連絡が続き、不要不急の外出自粛が続いている。家にこもってばかりいると、どこかに出かけたくなる。
普段は国内外の観光客の多い太宰府が、コロナの影響で人出が少ないという情報を得て、前から行きたいと思っていた都府楼跡と元号「令和」の碑がある坂本神社の周辺を散策。静かで人の姿は少なく、かつての太宰府政庁の在りし姿を想像しながら歩いた。そこで、偶然、武藤資頼・資能親子の墓と供養塔の表示に気づき見学した。博多の承天寺の大壇越(仏・法・僧に財物を供養する人)の名前は知っていたが、詳しい事を知らなかったので、もっと武藤親子について詳しく知りたいと思った。

○ 小弐武藤資頼(すけより 1160年~1228年)
鎌倉幕府から守護職として九州に派遣された関東御家人。一介の御家人の身分で有りながら、本来公家の官職である太宰小弐に任ぜられたのは資頼が初めてであった。幕府の機関である太宰府守護所を太宰府に置き、資頼以降の歴代の武藤氏が太宰府の官職であった小弐を兼ねたことから「小弐」を名乗るようになった。資頼は筥崎宮の土地を博多の承天寺に寄進し、円爾弁円(聖一国師)を招聘して創建。創建にあたっては謝国明ら宗商人が多く援助した。                     (wikipedia 参照)

○ 小弐武藤資能(すけよし 1192年~1282年)
平氏武将であった武藤資能(すけよし)は争乱の時、源氏武将の戦いぶりにほれ込み、平氏の凋落を予感し、源氏に降って、源氏武将となる。そしてみごとに、源頼朝の信頼を得た男である。資能は承天寺開山からわずか32年後の元寇の役では九州総大将になり、身命を賭して戦った男である。承天寺大壇越が、やがて元軍戦の総大将を勤めた。
(「福岡歴史がめ煮 」 空閑 龍二 著 海鳥社 引用)

○ 小弐武藤資能は建久8年(1192年)太宰府に生まれ 安貞2年(1228年)32歳で父資頼の跡をつぎ、戦傷死するまで、53年間もの長きにわたり九州における武人の統領として活躍した人物である。朝廷からは 外交・貿易・行政を司る太宰小弐と豊前守の官職に、鎌倉幕府からは鎮西奉行と筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐の5ケ国の守護職に任じられた。
元軍は、すべてこの5ケ国の海岸線より日本侵略をめざした。従って、彼は侵寇時、国土防衛上最も責任重い立場にあったが、文永・弘安の両戦役を通じ、日本軍の総大将として獅子奮迅の活躍をなし、国家の柱石として湛えられたのである。とりわけ対馬・壱岐・鷹島などの住民が甚大な惨禍を被った。弘安の役においては、高齢にも拘わらず出陣し、この時における戦傷のために死去。享年84歳であった。
(小弐資能顕彰碑より引用)

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