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博多旧市街 奥堂のまち歩き

2021年03月19日(金)
コラムニスト

コロナ禍による緊急事態宣言解除を受け、運動不足解消にまち歩きに出た。
行き先は博多旧市街奥堂。
この町名は昭和37年「住居表示に関する法律」施行に伴い、今は無い。
櫛田神社所蔵博多店運上帳によると江戸時代(明和2年頃)の奥堂の運上銀(営業税)は極めて少なかった。逆に多かったのは鮮魚問屋や船問屋で活況を呈していた鰯町(現:須崎町)であった。
角川日本地名大辞典によると、奥堂町は〔上〕〔下〕〔中〕の3町からなり、太閤町割以来厨子流に属した。
まち歩きは、聖福寺前から櫛田神社方向へ〔上〕から始めた。
現町名は御供所町であり、明治期までは代呂物問屋や志荷商人等が住んでいた。
続く〔下〕も御供所町である。
大動脈である大博通りにあった町内で、残された通りの一部に奥堂の石碑が建つ。
この辺りは濡衣塚伝説の奥堂厨子があったことから町名の由来とされる。(筑前国続風土記付録及び福岡町名散歩より)
奥堂厨子の近隣にあった天福寺は、二代藩主忠之公の廟建設により龍宮寺境内に移転した。(石城志より)
現在福岡祇園第一生命ビルディングの一角に、乙丑の変で、天福寺で切腹した加藤司書公の歌碑と城南区へ移転した天福寺の石碑が鎮座している。(明治の博多記より)
少し休憩をするなら、蕎麦店二階から隣接する東長寺の庭を眺めながら美味しいおソバを食べるのも乙なものである。
さて、次に大博通りを渡って〔中〕を歩く。
現在は冷泉町となり、この通りは博多祇園山笠の難所で知られる西町流への曲り角がある。
博多日記によると、この辺りにあった鎮西探題を攻めた菊池武時の激戦地犬射馬場があった。
昭和57年の発掘調査では、この頃のものと思われる多数の遺骨が出ている。
また、室町時代大内氏から庇護を受けた豪商奥堂家が、この辺に家屋敷を構えていたことが筥崎宮所蔵御油座文書写でわかる。
今回のまち歩きでは、冷泉小学校がまだあった頃の街並を、航空写真を見ながら中世に思いを馳せ、今なお残る地名のバス停奥堂から帰路についた。

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