博多駅から北に10分ぐらいで「東長寺」に着く。その前に、第一生命ビルが建っている。ここは、聖福寺の末寺であった臨済宗妙心寺派の「天福寺」が在った所である。
1233年(天福元年)、高陽和尚が開山。時の年号を寺号とされている。
昭和58年に油山(片江四丁目)に移転する。
福岡藩第11代藩主黒田長溥は、公武合体を唱えていて、幕末の主流である勤皇党とは距離を置いていた。黒田藩も一時、加藤司書が大老となり勤皇党に近い体制となるも、わずか3ヶ月にて任を解かれ、佐幕派が主流を占めると同時に、幕府からの圧力もあり、「乙丑の獄」という勤皇党の粛清が行なわれた。大勢の黒田藩内の有能な人物が、切腹や斬首にて亡くなったのである。
加藤家は、関西伊丹の荒木村重により黒田如水が間違って地下牢に入牢された折、如水救出に貢献した功で、代々中老職に列されていた。
加藤司書は、長州を討つべく36藩が広島に召集された折、黒田藩を代表し、戦いをやる事なく平和解決にて長州を宥める方向で纏め全国にその手腕を鼓舞した。特に薩摩の西郷吉之助の受けも良く、福岡藩が明治の改革の主導権を握った時でも有った。
その折、広島にて加藤司書が謳った今様が下記で有る。
「すめらみくにのもののふは、いかなることをか勤むべき、ただ身にもてるまごころを、きみと親とに尽くすまで」と黒田武士としての心情を歌い上げたものである。
又、黒田藩が長崎の警護の任を命ぜられた時も、加藤司書自ら現地に出向き任を全うし、福岡藩の力を全国に見せつける。
今の日本の時勢が勤皇にて方向が進んでいる事を、藩主黒田長溥に建白するも聞き入れられず、「乙丑の獄」という最悪のシナリオと成るのである。
加藤司書も切腹の命を受け、「天福寺」にて、36才の生涯を全うした。
「君がため尽くす赤心(まごころ)、今よりは尚いやまさる武士の一念」
と、何時までも君を思う気持ちを、辞世の歌に託し朗吟した。
加藤家の菩提寺は 聖福寺の塔頭である「節信院」であるが、聖福寺の山門には後鳥羽院の宸筆
「扶桑最初禅窟」があり、境外に在った聖福寺末寺である「天福寺」で切腹が執り行われた。