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『勤皇の志士を助けた野村望東尼が得度した「大宝山 明光寺」』

2013年02月19日(火)
コラムニスト

博多駅から二つ目のバス停(東光二丁目)から徒歩5分ぐらいの所に在る。1381年創建の曹洞宗の「大宝山 明光寺」である。

勤皇歌人として知られる「野村望東尼」の墓が建っている。54才で未亡人となった野村望東尼は、菩提寺である明光寺にて剃髪し「招月望東禅尼」となる。

野村望東尼は、幕末の頃勤皇の志士達が母の様に慕った女性であった。300石の福岡藩士「浦野重右衛門」の三女として生まれる。容姿も良く才媛で有った「浦野もと」は、17才で20才も年上、500石の「郡利貫」と結婚するが半年で破局。武門の奥方を捨て文学の道を選ぶ。

その後、24才にて馬回役の「野村新三郎」の後妻となる。先妻との間に3人の男子がおり、望東尼も4人の女子を産むが皆早世してしまう。望東尼は、体が弱い事も有り、療養の場所として平尾に別荘を持っていた。これが、西鉄平尾駅から徒歩10分ぐらいに在る「平尾山荘」である。望東尼40才頃より、ここに勤皇の志士達が出入りした。

黒田藩は尊王佐幕に対し、尊王攘夷の福岡藩勤皇志士と相入れず「乙丑の変」として、家老加藤司書等々が切腹・斬首される事件があり、匿った罪により望東尼も流罪と成ったのである。山口の「高杉晋作」も平尾山荘で隠匿した事もあり親交が深かった。60才の年で救出されるまでの10ヶ月弧島姫島の生活は過酷だった。脱出は、高杉晋作等の助けによるものであった。

高杉晋作が病に伏した事を知り、防府市に向かい高杉晋作を看取った後、半年後の慶応3年11月防府市にて62才の生涯を終える。幕末の歴史を大きく左右する人物であり明治維新に貢献する人物であった。女性として初めて明治政府より「正五位」の位階も受けている。

野村望東尼については、色んな方達が研究し書籍も沢山発行されている。江戸末期の歌人として勉強するのも面白い。

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