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玄洋社と博多の大親分が大乱闘?!(櫛田神社参道の石碑)

2020年02月17日(月)
コラムニスト

櫛田神社参道に写真のような石碑が立っています。石碑の正面には「従万行寺前町 至社家町 道路幅参間八歩長六拾六間 寄附主 平岡浩太郎 大野仁平 児島哲太郎」、側面には「明治35年6月」と刻まれています。 連名で寄附をしたくらいですから、仲の良い友人とかお仲間だと普通は思いますが実はこのお方たち、特に平岡と大野の間には大事件が関わっているのです。 平岡浩太郎は、嘉永元年(1851年)福岡藩士の次男として、福岡地行で生まれました。父親が明治維新後博多に出て来て、下対馬小路で醤油醸造業を始めました。 浩太郎は藩校修猷館に学び、明治元年の「戊辰戦争」に出征し、また明治10年の西南戦争にも西郷軍に投じ戦いましたが、遂に敗れ官軍に捕らえられ投獄されました。出獄後は自由民権運動に参加し、明治15年従来の政治結社向陽社を玄洋社に改名し初代社長に就任しました。その後実業方面にも進出し、炭鉱経営に成功し、玄洋社の資金面を支え、九州鉄道の創設、官営八幡製鉄所の誘致にも関わり、福岡の経済発展に貢献しました。また、衆議院議員としても政界で大活躍をしました。明治39年(1906年)56歳で下対馬小路の自邸で病没、御供所町聖福寺に葬られました。 大野仁平は元々任侠に生きる博多の大親分で、明治維新当時、筑前で組織された勇敢隊の一人で勇敢仁平と言われた人です。奥羽戦争に出征して大いに奮戦奮闘しました。特に敵の流れ弾が口中に入った途端、仁平はカチッと弾丸を歯で食い止め有名を轟かしたという伝説の持ち主です。(あくまでもお話です!)明治30年ころ出来町から天神町に移り住み、博軌電車(後の市内循環線電車)の建設や、博軌の地下電燈敷設問題等々、福岡市発展の事業に功労がありました。 時あたかも福岡には玄洋社が結成され、平岡浩太郎、頭山満、進藤喜平太など旧黒田藩の国士を気取る青年たちが福博の町を闊歩していました。また、大野仁平達も類を以て集まり徒党を組んで博多の町を横行していました。両者間には次第に激しい対立の気分が高まっていき、その対立反目が激突する日がとうとうやってきました。明治22年頃の出来事だと言われていますが、両者は終に水茶屋の料亭常盤館で衝突し、多数の怪我人が出る大乱闘を演じたのであります。玄洋社の壮士達が飲んでいる座敷の隣で仁平達も宴会を始め、機を見て「お酌ばしまっしょう」と間の襖を開けて乱入したものですから、さあ大変、大乱闘が始まり双方共に多数のケガ人が出ました。しかし、「雨降って地固まる」のたとえもあり、この大乱闘が契機となって両者仲直りの手打ちが行われました。これ以後仁平の一派は玄洋社のために命懸けで働くことになりました。 これが石碑に仲良く連名で刻まれているご両人の由来です。

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