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コラム

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「川上音二郎忌」が開催されました

2022年11月28日(月)
コラムニスト

令和4年11月11日午前11時より川上音二郎忌が博多承天禅寺覚皇殿において執り行われました。

亡くなったのが1911年ですから、今年は没後111年に当たります。
川上音二郎忌世話人会代表の長谷川法世さんのあいさつで始まり、老大師の読経の後、博多町人文化連盟による「博多の四季」の唄と踊りが披露されました。

続いて、NPO法人博多古謡保存会の皆様の伴奏に合わせて「オッペケペー」が披露されました。

権利幸福嫌いな人に 自由湯をば飲ませたい
オッペケぺー オッペケペッポーペッポッポー

うしろ鉢巻きに陣羽織、日の丸扇をもってうたう姿、どこかで見たことありませんか?
そうです、博多の明治通り川端通商店街の入口に西頭哲三氏制作の銅像がありますね。

最後に筑前琵琶旭会による、曲名「名物呑取槍」(名槍日本号を吞み取った母里太兵衛の物語)が披露されお開きとなりました。

音二郎は、明治44年大阪帝国座10月興業の開演二日目に持病の腹膜炎の容態が悪化し、興行は中止となりました。帝国座近くの病院に入院して手術を受けましたが、とうとう昏睡状態に陥ってしまいました。駆けつけてきた座員が運ぶ担架に乗せられて帝国座の舞台の中央に移された後、明治44年(1911年)11月11日午前5時、舞台の上で静かに息を引き取りました。享年48歳でした。葬儀・告別式は大阪において執り行われました。

二か月前に博多の舞台を飾った音二郎は、亡き人となって故郷博多へ帰ってきました。11月21日、博多での葬儀が執り行われました。中対馬小路の自宅から祇園町万行寺まで道の両側は十重二十重の人垣で、大混雑になったと言われています。万行寺から辻堂町の承天禅寺に移され、寺内に埋葬されました。生前音二郎は「自分が死んだら汽車が見えるところに埋葬してくれ。汽車で旅回りする役者たちを、見守ってやりたいから。」といったので、線路に近い場所に埋葬されたのだとも言われています。

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