• Instagram
  • facebook
  • twitter

コラム

TOP > 博多ガイドの会 > コラム > 神風は吹いたか?

神風は吹いたか?

2019年06月13日(木)
コラムニスト

皆さんは福岡市歌をご存じでしょうか。
その歌詞は次のとおりです。

「元寇十万 屠(ほふ)りしところ 歴史は千代のふかみどり
松原かけていさおしの ほまれぞかをる おお漲(みなぎ)らふ 西日本の力なる 福岡 福岡 とどろく都(修正後はわが市)  二番、三番略 」

これは、元寇650年に当たる昭和6年(1931年)に福岡市教育会が歌詞を公募し、一等当選の金子健の歌詞に八波則吉が補作を行い、中山晋平が作曲したものです。
多分今の福岡市民で歌える方ほとんどおられないのではないでしょうか。
この歌詞の中に「元寇十万」とありますが、元軍に対して勇敢に戦ったのは九州の武士団です。けれども元寇のときには二度とも神風が吹きそのおかげで元軍は負けたというのが従来からの通説であり、大多数の日本人はそう教えられ、信じてきました。
だが、果たして本当に二度とも神風が吹いて元軍を撃退したのでしょうか?そのことについて、最近の考え方を紹介します。

そもそもなぜ元は日本に攻めてきたのでしょう?当時の日本と宋(南宋)との関係からいっても日本は元に関心を持つことはあまりありませんでした。当時の日宋貿易では、宋に対しての日本からの主な輸出品は硫黄や木材でした。なかでも硫黄は硝石・木炭と共に火薬の原料として、もっとも重要視されたものです。そして火山のない宋では硫黄の産出はほとんどありませんでした。まさしくこのことが、元が日本を攻略しようとした主な理由なのです。元にとっての最大の敵国である宋に戦略物資である硫黄を供給している日本は当然滅ぼすべき対象であったのです。

元と高麗の連合軍は大宰府を攻撃目標と定め、1274年10月に対馬・壱岐を経て九州北部、博多湾岸に攻めてきました。文永の役です。
「文永の役では蒙古軍は嵐のために一夜で退却した。」と書いている教科書があります。しかし、本当に嵐のため一夜で帰ったのでしょうか。疑問があります。『蒙古襲来絵詞』にあるように鳥飼干潟(樋井川河口)での激闘を終えた蒙古・高麗軍は西方の麁原山に引き上げました。ところが、一日で敵が帰国した原因とされる嵐はその夜には吹いていないのです。では優勢だった元・高麗軍がこれ以上戦うことを止め、なぜ退却したのでしょう。そもそも元軍は日本を徹底的に征服しようという気はありませんでした。それにこれから先季節が冬になれば、日本海は荒れ、元・高麗軍は悪くすれば退路を断たれて全滅の恐れさえありました。これらのことが帰国を促したと考えられます。
つづいて1281年の夏にまた攻めてきました。弘安の役です。
この時には日本は沿岸一帯に防塁を築き簡単には上陸できないようにしました。
「弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船は沈み、全滅した。」と書かれています。確かに台風が来たし、実際に鷹島沖に船は沈んでいます。しかし、台風通過後も二つの海戦が行われており、必ずしも台風が決着をつけたわけではなかったのです。二つの海戦の結果、これ以上の戦争継続は困難と判断した蒙古軍は鷹島・志賀島からの退却を決めたのです。

竹崎季長を始めとする九州武士団は、命を懸けて戦い、辛うじて勝利しました。彼ら武士団には神風という感覚はありませんでした。自分たちで蒙古を打ち払って功名を立て、恩賞をもらおうと思っていたのです。『蒙古来襲絵詞』には台風のシーンはまったく描かれておらず、神風なる言葉もひと言も出てきません。神のおかげで勝ったという意識は、主に貴族や神官・僧侶に強くあったのです。時間が経って「神のおかげで勝った、それは嵐だ、神風だ。」となっていったのはある意味自然な流れではあったのです。
元寇は鎌倉幕府が滅んでいく遠因をつくりました。その後博多は対外防衛の中心となり、鎮西探題が置かれ、九州の武士たちが代わる代わる防衛を担当しました。しかしながら役後も元との貿易は行われその中心は博多でした。戦争と貿易は別だったのです。
以上述べたように、二度の元寇で日本が勝ったのは、九州の武士団が団結して戦ったからであり、弘安の役では確かに大風は吹きましたが、それが勝因ではないのです。

参考文献
服部英雄『蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実~』(中公新書、2018年)

 

博多の魅力