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博多と 仙崖・山頭火

2020年01月14日(火)
コラムニスト

私は、博多に50年住んで博多の人々に親しまれた仙崖さんと、放浪の旅に出て、新しい俳句を残した山頭火の二人の、博多でのことをもっと知りたいと思った。

○ 仙崖は、美濃国の人で、農民の子として生まれたが、11歳の時に美濃国清泰寺で仏門に入り、19歳の折、武蔵の東輝庵で月船和尚に師事した。13年後に月船が亡くなった際、東輝庵を辞して諸国を行脚し、38歳の時に博多の聖福寺住職である盤谷紹滴の弟子となり翌年寺に招かれた。
聖福寺の僧たちは丁重に迎えるため、郊外まで出向いた。ところが、いくら待っても高僧らしい人の姿が見えない。待ちわびてすっかりくたびれた頃に、貧しい身なりの小柄な坊主が通りかかった。僧たちは、その坊主に「途中で仙崖和尚という高僧に出合わなかったか。」と尋ねた。すると坊主はしばらく黙った後、「仙崖ならわしだが。」と穏やかに答えた。出迎えた僧たちは仙崖があまりにも貧相な身なりをしていることに、しばし、言葉を失ったとのこと。
42歳から62歳までの23年間を聖福寺の住職として過ごした仙崖は、狂歌や絵を得意とし、その奔放で酒脱な生き方から、博多の人々に、「仙崖さん」と親しみを持って呼ばれていた。仙崖には多くの逸話が伝えられている。
住職となった仙崖は、伽藍の再整備と弟子の育成のために東奔西走する。この間、本山である京都の妙心寺から、禅僧として最高位に出世し、妙心寺の世代になる儀式を受けよという催促が三度あったが、仙崖は断り続け一生を黒衣の修行僧として生きた。
62歳の時、弟子の堪元に法席を譲って、虚白院に隠栖した。87歳の時、堪元和尚が藩の怒りにふれて筑前大島に流罪されたため、第125世の法席に再任し、88歳で亡くなるまで博多に住むこと50年。すっかり博多の土地になじみ博多人以上に博多人になりきって、その禅風を挙揚した。そこで、四方から学人が集まってきて、その法席は盛大を見るに至った。それと共に、和尚は禅余の逸興にも、沢山の書画書きを残した。
(別冊 太陽 日本の心「ユーモアあふれる禅のこころ 仙厓」の仙厓の生涯 参照)

金満家と貧乏神の逸話①

ある金持ちが新築祝いに和尚を招待し、祝いの言葉を所望した。和尚が「ぐるりつと家をとりまく貧乏神」と書いた。これを見た主人、不興な顔をしている。すると、和尚はその続きに「七福神は外へ出られず」と付け加えた。

和尚 八百屋の番頭になる②
ある年、博多周辺でコレラが流行った。そんな折り、虚白院出入りの八百屋がしょんぼりと和尚の所へやってきた。「和尚さんモシ、俺はナ、今年こそ南瓜で一儲けしようと思って、南瓜を沢山買い込みましたところ、南瓜を食うとコレラにかかるといって、誰も買ってくれません。俺の家はつぶれてしまいます。どうぞ助けチャナサイ」と泣きながら合掌してたのむ。和尚いわく、「それは気の毒なことじゃ、よしよし、わしがお前の番頭になって売ってしんぜよう。南瓜をみんな持ってきなさい。」八百屋は、和尚は一体何をするか心配しながらも、南瓜を大八車に乗せてきた。和尚はそれを聖福寺の門前に積み上げ「コレラ除け祈祷南瓜」という高札を立てて、南瓜の傍らにゴザをしいて、座り込んだ。やがて、「それ、聖福寺でコレラよけの南瓜を売り出したぞ」と我も我もと先を競って買いにやってきた。ついに半日もしないうちに売り切れてしまったという。
一説に、和尚は、南瓜の中をえぐりとって、その中にろうそくを立てて点火して門前に吊した。 博多の人たちは、一体何だろうと珍しがって見物にやってきたが、意味が分らないので仙崖和尚に尋ねた。和尚「あれかい、あれはコレラやその他の病よけじゃ」と伝わる。そのほかにも沢山の逸話がある。
(①・② 仙厓和尚逸話選より引用)

○ 放浪の俳人「山頭火」

種田山頭火は、本名種田正、日本の自由律俳句の俳人。三頭火とだけ呼ばれることが多い。山口県防府市の生まれ、父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は、山頭火が10歳の時に自宅の井戸に身を投げた。
その後、早稲田大学に進学する。[層雲」の萩原井泉水門下生となる。父の酒癖のために中退し、酒屋を継ぐが破産。父と弟は自殺。妻子とともに熊本に逃げ、古本屋で再起を図るが失敗。妻に逃げられる。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝と改名。(wikipediaより引用)

石堂川のそばの大浜地区に、「博多と仙崖」の著者、三宅酒壺洞宅がある。友人である酒壺洞は、山頭火を物心共に援助した。博多へ来たときに宿泊させ、句会を開いた。その時の句「人の子竹の子ぐいぐい伸びろ」が角の電柱「博多博物館 電柱歴史案内」に掲示されている。

山頭火は、福岡の事を日記に記しています。さすが、福岡という気がする。九州都会情緒があるのは福岡だけだ、(関門は別として)町も人も美しい、殊に女は!若い女は!街上で電車切符売りが多いのも福岡の特色だ、 福岡中州をぶらぶら歩いていると、私は本当に時代錯誤的だと思わずにはいられない、乞食坊主が何をうろうろとしているとしかられそうな気がする(誰に? はて、誰にだろう?)
(日記は、山頭火著作集1「あの山越えて」大山 澄太 編者より引用)

山頭火は、「分け入っても分け入っても青い山」の句の前書きに「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅にでた出た」と書いている。

今も仙崖和尚は、博多人に「仙崖さん」で愛され、幼児期から、その話を聞かされて育った子も多いと思う。また、いろいろな場所に、沢山の作品が残る山頭火の自由律俳句、旅に出るときっとその作品との出会いがあると思う。二人が残した作品にもっと出合いたいものだ。

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